違いを受け入れ、共に楽しむ。
木村敬一による新たな挑戦
何も見えずに、水の中を泳ぐ――。少し想像すると、進むべき方向も、自分がどこにいるのかもわからないまま進むことに、大きな不安を感じるでしょう。普段はよく知っているプールでも、視覚がなくなった瞬間にまったく違う場所に感じられるかもしれません。
視覚に障がい(全盲)がありながら、パラリンピックで金メダルを獲得した東京ガス社員の木村敬一が企画した「ブラインドスイム体験」は、水の中で“見えない世界”を体感するプログラムです。体験を通し、水の中で何も見えないという“恐怖や不安”は、“別の感情”に変わっていくのだとか……。
水の中で交わされる声と、そこから少しずつ育まれる信頼を手がかりに、彼が思い描く“違いを受け入れて、楽しむ共生社会”について紹介します。
理解と行動の間にある壁を超えたい
「障がいのある人と、どう接したらいいのかわからない」
これは、木村が講演会などで最もよく受ける質問の1つです。内心では「助けになりたい」と思っていても、どのように声をかけ、何をすればよいのかわからないという戸惑いから行動をためらった経験のある人も少なくないでしょう。
さまざまな背景を持つ人たちの多様性を尊重し、互いの違いを認め合うことは、社会の共通認識になりつつあります。しかし、その大切さを頭で理解するだけでなく、実際に相手へ声をかけたり、必要な行動を起こしたりすることは簡単ではなく、誰もが自然に行動できる社会の実現に向けて、まだ解決すべき課題が残っています。
講演会などで語る言葉だけでは伝えきれなかった、障がいのある人と接する際のためらいを行動に変え、パラスポーツへの関心や共感を広げていくこと。それが木村を新たな挑戦へと突き動かす原動力であり、“誰もが参加できる体験イベント”という取り組みにつながっていきます。
パラリンピック金メダリスト、木村敬一の原点
1990年に滋賀県で生まれた木村は、先天性の病気により2歳で全盲に。幼い頃から体を動かすことが大好きで、姉の手を借りながら泥だらけになって庭を走り回る子どもだったそうです。
小学生になると球技に熱中しますが、ケガが増えていきました。小学4年生の頃、心配した両親が見つけてきたのが、転んだり迷子になったりしない水泳でした。木村はすぐに水泳に夢中になり、先輩のパラリンピック出場や、中学3年生でジュニアの国際大会で日本代表に選出されたことをきっかけに、パラリンピックを目指すようになりました。
そして、高校在学中の2008年北京パラリンピックを皮切りに、ロンドン、リオデジャネイロ、東京、パリと5大会連続でパラリンピックに出場。東京とパリでは金メダルを獲得し、2度の紫綬褒章を受章しています。
現在は、練習の傍ら、講演活動やメディア取材、慶應義塾大学の非常勤講師も務めるなど、幅広く活動しています。
そんな木村が初めて企画立案から運営まで主導したのが、2026年8月に開催された『パラアスリートと体験するブラインドスイム』です。
声と信頼をつむぎ、見えない水中を泳ぐ体験
体験イベントでは、パラ水泳の公式戦で視覚障がいクラスの選手に着用が義務づけられているブラックゴーグルを装着し、視覚が完全に遮断された状態で、進む方向やゴールの位置を指示する人とペアを組み、協力しながら水中で活動をする「ブラインドスイム」を行います。木村は、生徒たちのお手本として泳ぎを披露し、泳ぎ方のコツを指導する役割です。
現役の金メダリストの泳ぎを間近で見たり、一緒に泳いだりする特別な時間を通じて、楽しさや驚きに触れながら、パラスポーツやパラアスリートをより身近に感じてもらう、これまでにない取り組みです。
木村が体験にこだわった理由
イベントの大きなポイントは、参加者が実際に体を動かす体験型であるということ。
これは、「視覚を遮断して動く役割」と、「指示や助言をする役割」に分かれて体験することで、障がい当事者の身体感覚や気持ちをリアルに体感し、相手が抱く不安感への解像度を高め、互いに協力して支え合うことの大切さを実感してもらいたいという狙いがあります。
体験型にこだわったのは木村本人であり、そこには視覚障がいの当事者としての、ある想いがありました。
「ものを見ることができない私にとっては、どれだけ言葉で説明してもらっても、実際に体験しなければ本当に知ったことにはならない、という感覚があります。ですから、障がい当事者のことを知っていただくには、実際に体験してもらい、私の言葉を直接伝えることが重要だと思ったのです。また、水泳の体験であれば、転んだり迷子になったりしない“見えない怖さ”を感じにくいため、私が理想とする“違いを受け入れて楽しむ”という共生社会に近づけるのではないかと感じたことも理由ですね」(木村)
木村の想いが形になるまでの長い歩み
このイベントの企画は二年以上前に検討を始めましたが、実現までには紆余曲折ありました。
当時、木村はアスリートの先の人生を見つめるなかで、新たな取り組みにも目を向けていました。そんな中で、視覚障がい当事者として、水泳選手として、そして東京ガスの社員として木村だからこそできることを検討した結果、決まったのがブラインドスイム体験会でした。
「東京ガスへの入社後、すでに企画された取り組みには参画していましたが、今回はじめて、企画・準備の段階から積極的に向き合い、イベントには想像以上に多くの人が関わっているのだなと、学びがありましたね。特に体験するプールを探すのは時間がかかり、大変でした(笑)」(木村)
木村が語る通り、このイベントは別の場所で開催する予定でしたが、当日に自然災害が発生して延期に。その後、改めて実施できる場所を探しましたがなかなか見つからず、開催の目途が立たない状況が続いていました。
その後、東京ガスグループがソリューションを提供する大切なお客さまである、学校法人東京女学館に相談。実施が決定し、急ピッチで準備を進め、今回の開催に至りました。
こうした道のりを経て、8月某日、開催する東京女学館の水泳部で参加者を募りブラインドスイム体験が開催されました。
体験の現場で ―水の中で交わる信頼
体験当日、参加者は約15名。水泳部の皆さんが集まってくれました。
まずは木村が参加者たちに全体の流れや、目の見えない人に対する基本的な指示の仕方や、プールの壁に近づいた際に声をかけるタイミングなどのガイダンスを行います。視覚障がい当事者と初めて触れ合う参加者が多く、同時に、相手は金メダリストとあって、不安と憧れが入り混じったような緊張の面持ちです。
ガイダンスが終わると、参加者の半数がブラックゴーグルを着用し、ペアになった相手の指示を頼りにプールサイドを歩く体験へ。ブラックゴーグルを着用した参加者にとっては、見えない状態で歩くこと自体が初めての経験です。一方、指示する側も「何を、どのように伝えればいいのかわからない」と手探りの状態。思うように前へ進めず、双方に戸惑いや不安が広がる様子がうかがえました。
手始めに木村が金メダリストの泳ぎを見せるデモンストレーション。参加者たちは、「障がいのある人の泳ぎとは思えない」「フォームが綺麗で速すぎる」などと、驚きを隠せない表情が見受けられます。
その後、ブラックゴーグルを着用し水中での歩行を行い、続いてビート板を使っての遊泳です。指示役もまだまだ試行錯誤をしており、ブラックゴーグルを着用している側も普段の水中での活動とは大きく異なり、ぎこちない様子。しかし、ペアを組む相手は長い時間を一緒に過ごす部活のメンバーとあって、少しずつ緊張がほぐれていくと、肩の力が抜けチラホラと笑顔も見られるようになっていきました。
役割を交代して生まれた変化
ここでブラックゴーグルを着用する役割と、指示をする役割を交代します。互いの立場を経験したことで、相手の求めている情報を理解できるようになり、参加者たちは急激な変化を見せます。指示は「もう少しだけ右に寄って」「そのまままっすぐ」など、具体的で思いやりのある内容に。また、指示を出すタイミングも合っていき、少しずつ目が見えない状況や指示をすることを楽しむ余裕が見えはじめていきました。
続くクロールでの遊泳を行うと、声の調子はどんどん明るくなっていきます。ブラックゴーグルを着用して泳ぐ側も相手を信頼して力強く泳ぎ、徐々にブラインドスイムを楽しめるようになっていたようです。
もう1人のパラアスリート・水上が見た「見えない世界」
参加者たちがここまで素早くブラインドスイムに対応できたのには、今回のイベントに参加者として加わった、東京ガスのもう1人のパラアスリートである水上の存在があります。
水上は右半身麻痺という障がいがありながら、2017年に50m、100m自由形で日本記録を更新し、2018年のアジアパラ競技大会では銀メダルを獲得。木村とは2009年に開催されたユースの国際大会で初めて出会い、そこからお互いにパラ水泳選手としての歩みを重ね、現在は同じ東京ガスに所属しており、水上は不思議な縁を感じているそうです。
同じパラアスリートとして活動する木村と水上ですが、障がいは視覚と麻痺であり、競技中の感覚や直面する課題は大きく異なります。今回のイベントでは、水上はあくまでサポート役でしたが、参加者と「見えない世界」を体験したことで、これまではわからなかった新たな発見がありました。
「キムさん(木村)と同じプールに入り、直接話を聞くことで、全盲の選手がどんなことに気を配り、どのような意識で練習に取り組んでいるのかを、これまで以上に深く知ることができました。うまく言葉にするのは難しいのですが、木村選手のような全盲のアスリートも、私のような麻痺のあるアスリートも、普段水泳部で活動している参加者たちも、それぞれに工夫をしながら同じプールで泳ぐ仲間だなと、改めて感じました」(水上)
「怖い」が「楽しい」に変わるまで
最後に行われた3チーム対抗のブラインドスイムレースでは、イベント冒頭に見られた不安や恐怖はほとんど感じられなくなっていました。指示する声は大きく的確になり、ブラックゴーグルを着用した参加者も自信をもってスムーズに泳ぎ、会場は大きな盛り上がりを見せます。参加者にとって今回のイベントは、単に“視覚障がいを体験する場”ではなく、“ブラインドスイムそのものを楽しむ場”へと変わっていったようです。ちなみに、優勝したのは水上のチームでした。
木村は、今回のブラインドスイム体験の意義について、“コミュニケーション”と“信頼”にあると話します。
「イベントの冒頭では、参加者は怖さを感じていましたが、プログラムが進むごとに声のトーンが変化し、途中からはしっかりとしたコミュニケーションのおかげで目が見えない状況を楽しめるようになったと思います。最初は息が合わなかったペアでも、何度か繰り返すなかで上達し、『今のよかったね』などとお互いに評価できるようになり、信頼が生まれていく様子を感じられたのは、とても素敵な経験でした。また、私が目指す共生社会の実現に向けて、実際に障がいのある人と接することで、障がいをネガティブに捉えるのではなく、私たちがどのように日々を過ごし、どんなことを楽しんでいるのかを知ってもらえたことも、大きな成果だったと感じています」(木村)
実際、参加した学生たちも「ブラインドスイムは初めて知りましたが、最初は何も見えずに怖かったけれど、ペアを組んだ相手が熱心に声をかけてくれ、信頼が生まれました」と話しており、“コミュニケーション”や“信頼”の重要性をしっかりと受け止めてくれたようです。また、前述の水上は、あらゆる人が立場を越えて楽しめる水泳という競技の魅力を再認識したそうです。
「参加者たちの変化は障がいの有無に関係なく、生身一つでダイレクトに行う水泳だから起こることだと感じています。全ての人が水を感じて、シンプルに壁を目指す。だからこそ、障がいを気にせず、ピュアにブラインドスイムに没頭できたのかなと。改めて水泳の素晴らしさを感じることができました」(水上)
イベント終了後、参加者の1人から「今度、障がいをお持ちの方を見かけたら、自分から声をかけてみます」という言葉を聞けたことは、“違いを受け入れて楽しむ”という共生社会の実現のための大きな一歩になるはずです。
支援から協働へ パラアスリートと共につくる未来
もともと、東京ガスがパラアスリートへの支援や協働といった取り組みを行うようになったのは、2013年に日本パラスポーツ協会のオフィシャルパートナーになったことがきっかけの1つ。同協会の会長に当社の役員が就任し、社員も出向するなど、企業としてパラスポーツの発展を支えてきました。
東京ガスは東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会のオフィシャルパートナーとなり、東京大会を契機に「パラスポーツを通じた共生社会の推進」を社内方針として掲げました。パラアスリートの活動支援に加え、パラスポーツの競技観戦やボランティア派遣など、取り組みの幅もさらに広がっていきました。
木村の活動のサポートを行いながら、木村と共にブラインドスイム体験の運営も担ったサステナビリティ推進部の原口が、障がい当事者である木村とは異なる立場で、次のように話します。
「障がいをお持ちの人と触れ合ったことがなければ、わからないと感じてしまうのは当たり前なのかもしれません。ですから、こうした体験イベントで実際に接する場というのはとても大切ですし、共生社会の実現に向け、とても有意義な機会になったと実感しました。参加した学生さんたちが、『何をやるのだろう』と思っているところから、少しずつ自ら動いてチャレンジしていく姿勢に変わっていく様子は本当に素晴らしいなと思いました」(原口)
さらに、東京ガスのサステナビリティ推進部として少し大きな視点から、東京ガスだからこそ果たせる役割についても語ってくれました。
「東京ガスグループは、140年以上にわたって1,000万件以上の需要家と関わり、子育て世帯や、単身世帯をはじめ、国籍や年齢、障がいの有無などにかかわらず、多様なお客さまと接してきました。多種多様な背景を持つお客さまとコミュニケーションを行ってきた当社だからこそ、そのノウハウを生かし、多様性への理解を社会に広げる責任があると考えています。そんな想いが形になったのが今回の取り組みです」(原口)
共に泳ぐことから、共に生きるまで挑戦は続く
見えない世界を誰かと共に泳ぐ。この体験を通して参加者が感じたのは、視覚を遮られる怖さではなく、相手のことを思いやって声をかけ、お互いを信じて支え合うことの大切さ、そして、不安は楽しさへと変えられるということです。
共生社会は、決して障がいのある人や、支援する人だけに関わる特別な話ではありません。困っている、障がいのある人を見かけたときに「お困りごとはありませんか?」と尋ねたり、自分とは異なる背景を持つ人の声に耳を傾けたりするなど、日常の小さな選択から始まっていきます。「知る」だけで立ち止まらず、「行動する」という小さな一歩が、違いを受け入れ、共に楽しめる社会へとつながっていくでしょう。
今後も東京ガスとして、共生社会の実現に向けて、ブラインドスイム体験のような「体験」を通じて得られる気づきを、より多くのお客さまや地域へと広げていきます。「私の目指す“違いを受け入れて楽しむ”という共生社会の実現まで、現在の進度は50~60%くらいかな」と笑う木村。東京ガスと木村の挑戦は、これからも一歩ずつ続いていきます。
●木村敬一
・公式X:https://x.com/kimurakeiichi
・公式Note:https://note.com/keiichikimura
●東京ガス サステナビリティ推進部
https://www.tokyo-gas.co.jp/sustainability/index.html



